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林元美「碁経衆妙」序 2

前段は実戦で上達するための心構えでした。元美によれば、先生につければ一番良いが、先生がいなかったら対局者同士でよく局後の検討をしたほうが良い、対局中は碁盤に集中して碁の根本的なところからよく考えること、それで上達しない人はいない、ということです。

つづきを見ていきましょう。

予、世の碁を好む者を観るに、只、勝敗を以って務めと為し、未だ始めより其の妙を味わうはなし。是を以って棊房に功十倍、而して毫も心に得る無し。棊房に於ける碁、日に一再局を過ぐる不可らず。其の心を用いる也。爾し故に能く進有り。

「棊房」は碁を打つ場所。碁会所。

世間の碁の愛好者を見ていると、勝敗のみを大事に考えて、碁を深く味わえている者はいない。

これでは碁会所でいくら勝ったとて、心に得るものは何もない。一日に一二局を越えないようにし、よく考えること。そうしてこそ進歩がある。

打つからには勝ちたい心理が働くわけで、そうでなければお互いにつまらないというものですが、勝敗にこだわるのはほどほどにしたほうが良いのでしょう。多く打って疲れれば注意力も散漫になるし、一局一局にかける思いも薄くならざるを得ません。いい加減な気持ちでいい加減な碁をいくら打っても上達しないのは当たり前のことですね。

この「碁経衆妙」は詰碁集であると冒頭に書きましたが、この序文にも書かれている「其の妙」、つまり碁の醍醐味については、詰碁をしていて感じたことがあります。

囲碁には「詰み」というものはないので、詰碁という言葉は本当はおかしなことです。従って、林元美やそれ以前の時代にはこれを「珍瓏」と呼ぶことが多かったのです。「珍瓏」の「瓏」は玉が擦れあって鳴る音の形容で、黒白の石がせめぎあって作られる、まさに玄妙としか形容のしようのない名品を眼にした時、古人が思わず、このような言葉を造語したのでしょう。

「珍瓏」、つまり詰碁は、そこに置かれた石をたった一つをたった一路動かしただけで、空きダメの数が一つ違うだけで、詰碁として成り立たなくなる場合がほとんどです。あるいは少しの変更を加えるだけで、手段が変わり、結果が変わりします。そうした詰碁というものは、一手の違いによって瞬時に様相を異にする囲碁というものの凝縮された姿なのです。 

勝敗にばかり気を取られている状態では全く気が付かないものに、勝敗というもののない詰碁に取り組むなかで気付くことがあります。「其の妙」とはこういうものかも知れないなあと思うぐらいですが、時間をかけないと解けないような詰碁をあれこれ工夫した後では、対局中の自分はいかに何も考えないで石を置いているのかということに愕然とします。この感覚は元美が「世の碁を好むる者を見るに.....」という感想に近いものがあると思います。

少しでも「奥妙」に近づくべく、詰碁をしっかり勉強したいと思う今日この頃です。


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